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アボリジニの言語

アボジリニは600から700の部族に分かれ、200から250の異なる言語を話していたといわれます。

これらの言語は、それぞれに異なった言語体系をもち、フランス語とドイツ語、中国語と日本語が異なるのと同様に相互に異なっています。

しかし、言語学者たちの説によると、もともと大陸北部中央の海岸地方で話されていた言語が、種族が大陸全土に拡散していくに伴って変化し、やがて互いに理解が不可能になったものと考えられています。

それぞれの言語は豊富な語彙と複雑な文法をもち、英語よりもラテン語やギリシャ語に近いといわれます。

発音は、基本的なものを習得すればそれほど難しいものではないということです。

しかし、これらの言語は、ヨーロッパ人との接触によって大きく破壊されました。

200から250あったとされる言語のうち、少なくとも50はまったく話されなくなり、100以上の言語は年長者や中年の人々のみに話されてはいるものの、子どもたちにはもう使われなくなっています。

現在も日常的に使われ、しかも子どもたちにも使われ続けているのは、およそ20から30の言語だといわれています。

言語がこのように衰退していったのは、何世代にもわたってアボリジニの子どもたちが英語で学校教育を受け、次第に伝統的な言語を失っていったことが理由として挙げられます。

1970年代の初頭には、アボリジニ・コミュニティーに2言語教育が導入され、まず自分の言語で読み書きを習い、その後英語教育に切り替えるという方法をとっています。

こうすることによって、アボリジニの言語が残存していくことが期待されています。

さらに言語を残していくために、言語センターを設立したり、ラジオやテレビなどのメディアによる言語の保存も試みられています。

アボリジニの言語 その2

一方において、アボリジニの言語そのものが変化していることも見逃せません。

新しいテクノロジーが紹介されたり、社会構造や行動パターンが変化するのに伴い、英語から言葉を借りてきたり、新しい言語を創り出したり、すでに存在する言語を変形させるなどの変化が起こりました。

その結果、2つの新しいアボリジニ言語、クリオールが生まれています。

「ケープ・ヨーク・クリオール(Cape York Creole)」と「クリオル(Kriol)」です。

前者は、英語の文法を簡略化し、英語とアボリジニ言語の橋渡し的な役割を果たすものです。

後者は、英語から言葉を借りてきてはいるものの、発音はアボリジニ言語の発音を適用し、文法もアボリジニ言語のものに当てはめて使用されています。

また、語義が本来の英語のものとは異なってしまうこともあります。

北部に住むアボリジニのなかには、クリオルが自分たちの言語であると思っている者もいます。

2言語教育も、新しい形態のものになりつつあります。

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アボリジニ文学

アボリジニは、伝統的には文字をもたない人々であったために、文学といえばかつての口承の文学と、現在の英語でかかれた文学の2通りに分けて扱われます。

白人が入植する以前には、彼らの生活の中心であった旅の話や、昔話、ある集団だけに伝えられている儀式や伝説などは、口承によって伝えられました。

もちろんこの文化は現在でも残っていますが、こうしたものが20世紀の半ばあたりから次第にアボリジニ言語を理解するヨーロッパ人によって英語に翻訳されました。

こうして、アボリジニ以外のオーストラリア人の間にも、彼らの神話や伝説が知られるようになったのです。

一方、英語でかかれたアボリジニ文学の始まりは、1920年代に遡ります。

デビッド・ユーナイポンはアボリジニ文学の父といわれる人です。

『オーストラリアのアボリジニ伝説』と称する冊子を1929年に出版しています。

しかし、それからしばらくはあまり目立った作品は世に出ていません。

60年代半ばになって、アボリジニの市民権獲得引導が盛んになり、その時の指導的役割を果たしたキャス・ウォーカー(後にアボリジニ名ウジュルー・ヌナクルを使用)が1964年に『我らは行く』を書いて、脚光を浴びました。

彼女の作品は、白人がアボリジニの生活や文化や、彼らの生活を支えている自然を破壊していることに抗議するものです。

コリン・ジョンスン(マド・レー・レー・ナロジン)の『山猫が落ちる』(1965年)は、アボリジニ最初の小説であり、白人に迫害された彼らの生活を描いています。

多文化社会と共和制運動

オーストラリアの人口は、1995年度に1800万人を越えましたが、そのうちの4分の1弱は外国生まれの移民・難民であり、世界中から移住者が来住しています。

故に、オーストラリア国民のうちで、その海外出生者に加え、両親ないしはいずれか一方が海外出生者という国民の割合は5人に2人と推定されています。

第2次世界大戦直後の人口は約760万人なので、約50年で1000万人程増加したことになります。

その半数が移住者によって賄われ、その半分はヨーロッパ系中心の非英語系移住者であり、出身国は多岐にわたることから、国民の7人に1人が非英語系言語を母語としていると考えられている多文化社会です。

このことは日本でもかなり理解されはじめ、多文化主義を論じる際、カナダや米国に加えオーストラリアへの言及が多くなっています。

10年前の年間移住者は、80年代中ごろの10万人を越える数から大幅に減少し、90年代は6~8万人前後を上下していました。

その約50%はアジア系です。

アジア系人口は、全人口の4~5%と考えられています。

依然としてキリスト教社会ではありますが、イスラム教徒や仏教徒も急増しています。

1947年、全人口中キリスト教徒は0.5%から2.6%に増加しています。

(統計では無宗教・無回答が増加し、20%近くに達していることが注目されます)

また、先住民族アボリジニも近年増加中です。

19世紀には滅びゆく人々と規定されていたため、白人オーストラリア人入植当時30万人と見積もられた人口は10万人以下にまで減少し、20世紀初頭に人口は最低となりましたが、現在では全人口の1.5%強を占めるまでに回復しています。

多文化社会と共和制運動 その2

多文化社会である以上当然のことながら、異文化・異言語・異宗教間婚姻が増加しています。

それにもかかわらず文化・言語・宗教の境界維持は顕著で、オーストラリアは多宗教・多民族社会化しているといっていいでしょう。

かつて白豪主義国家として有色人移住者や難民の移住を拒否していたオーストラリアが、戦後急速に多民族国家・多文化社会となったのは、第2次世界大戦直後の1947年から大量移民政策を実施したためです。

大量移民政策により英国系移民の他に、戦後直後には大量の非英語系ヨーロッパ人移民や、難民を受け入れました。

さらに、1950年代と60年代にはギリシャ、イタリア、旧ユーゴスラビアから大量移住を求めました。

60年代後半からはトルコ、レバノンなど中近東からの移住者を受け入れた後、70年代後半からはインドシナ難民の大量入国を認めたのです。

この大量移民政策は、当初、日本軍の本土攻撃に触発された大陸防衛強化と、戦後の経済復興・経済成長のために必要な大量の労働力増を目的として開始されました。

時々中断しながらも、1990年代初頭まで継続されています。

白豪主義(White Australia Policy)は、トルコ人を受け入れる頃(1966年)から解体が進んだといえます。

他方、第2次世界大戦後日本・極東アジアや東南アジアとの経済関係の強化が必要になると、白豪主義政策は関係強化への大きな障害であると意識されはじめました。

この面からも白豪主義解体が叫ばれはじめ、同政策は1960年代半ばから70年代半ばにかけて解体されました。

1975年の連邦人種差別禁止法の制定が、白豪主義の最終的解体の目印とされています。

その後、非差別的移民政策が実施され、オーストラリアの多文化社会化が進んだのは、オーストラリアの経済・政治面でのアジア太平洋国家化の促進によるものです。

近年ではアジア太平洋地域ばかりではなく、アフリカ諸国をも巻き込んだインド洋地域とも関係強化の努力を進めているのです。

多文化主義になった背景

オーストラリアは人口構成の多様化と、伝統文化・言語への深い愛着から、文化・言語の維持を望む非英語系移住者の拡大、そして、自国のアジア太平洋国家化によって人種差別的な白豪主義を廃止したのです。

そして、多様な言語の存在と維持を認める「多文化主義」が1973年に先駆的に唱えられ、以後1980年代になると普及しはじめました。

そして、名実ともに多文化社会オーストラリアとなったのです。

現在では、多文化教育・多言語教育・多文化放送が実施されています。

また、病院、裁判所、警察、行政サービスなどの通訳サービスや多言語出版物の配付は、当然のこととなっています。

移民・難民のエスニック・コミュニティーの運営補助や、文化・言語維持活動への補助なども行われています。

現在、主要な大学には多文化問題研究センターが設置され、研究補助も政府によって行われています。

今日、白豪主義オーストラリアのイメージは現状に全くそぐわぬものとなっています。

こうした結果、1995年5月キーティング前連邦首相は、オーストラリアの自律意識の高まりとアジア太平洋国家化に加えて、社会の多文化社会・多民族国家化への動きを強く印象づけるために英国との歴史的関係を象徴する立憲君主制を廃しました。

大統領を頂点に抱く共和制国家化への移行に、必要な憲法改正提案を議会で行ったのです。

多文化主義になった背景 その2

共和国化への支持は90年代に上昇し、90年代半ばには50%を越えるまでになりました。

しかし、キーティング首相案では、現連邦総督を連邦議会選出の大統領に置き換えるにすぎなかったのですが、国民の8割近くが大統領を直接選挙で選出したいと望んでいるため、政府と国民の間に食い違いがみられます。

それでも、約半数の国民が共和国化を支持していることは事実であるため、共和国化反対を貫いてきた自由党・国民党保守連合も、政治体制移行に関する憲法会議の実施を受け入れるまでになりました。

その結果、憲法会議は1998年2月に実施されることになり、そのために憲法会議代議員152名の選出が郵便投票にて97年11~12月にかけて行われました。

その直前、97年11月には、ハワード首相も大統領の選出はキーティング案でよいのではないかとの声明を発表しました。

そのこともあって、2月の憲法会議では、1999年末までに共和制移行を問う国民投票を実施することが決められました。

以上のように、多文化社会化してきたオーストラリアですが、そこには多民族国家というもう1つの側面を忘れることはできません。

つまり、オーストラリアは、移民文化が多数併存する多文化社会であるだけではなく、先住民族アボリジニが住む多民族国家であります。

アボリジニは白人流刑囚が入植する前からオーストラリアに住んでいた先住民族であり、事実上のオーストラリアの土地所有者です。

居住の歴史は5万年前にも遡れるとされる彼らこそ、オーストラリアの主権者でした。

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