多文化主義になった背景 その2
共和国化への支持は90年代に上昇し、90年代半ばには50%を越えるまでになりました。
しかし、キーティング首相案では、現連邦総督を連邦議会選出の大統領に置き換えるにすぎなかったのですが、国民の8割近くが大統領を直接選挙で選出したいと望んでいるため、政府と国民の間に食い違いがみられます。
それでも、約半数の国民が共和国化を支持していることは事実であるため、共和国化反対を貫いてきた自由党・国民党保守連合も、政治体制移行に関する憲法会議の実施を受け入れるまでになりました。
その結果、憲法会議は1998年2月に実施されることになり、そのために憲法会議代議員152名の選出が郵便投票にて97年11~12月にかけて行われました。
その直前、97年11月には、ハワード首相も大統領の選出はキーティング案でよいのではないかとの声明を発表しました。
そのこともあって、2月の憲法会議では、1999年末までに共和制移行を問う国民投票を実施することが決められました。
以上のように、多文化社会化してきたオーストラリアですが、そこには多民族国家というもう1つの側面を忘れることはできません。
つまり、オーストラリアは、移民文化が多数併存する多文化社会であるだけではなく、先住民族アボリジニが住む多民族国家であります。
アボリジニは白人流刑囚が入植する前からオーストラリアに住んでいた先住民族であり、事実上のオーストラリアの土地所有者です。
居住の歴史は5万年前にも遡れるとされる彼らこそ、オーストラリアの主権者でした。